「グローバル人材」、私の解釈。

今日は 「グローバル人材」 について、私の考えを述べます。
 先ずは、「グローバル人」 あるいは、「グローブ人」( これは、日本語で言えば「地球人」)とは言わなくて、なぜ「グローバル人材」 なのか、について。
 昨日も書いたように、「地球人」 あるいは 「グローブ人」 を名乗るには、この地球 globe から、外に出なければなりません。龍馬は 「土佐の国」 を出ても、日本という地面の上にいることができたから、日本の 「他の国」 に人間に向かって 「わしゃ、日本人だ」 ということが出来ました。
 しかし、現在の地球では、地球の外に出て、他の惑星の住民に対して、「わしゃ、地球人だ」 という機会は、今のところ、宇宙飛行士にもないです。だから、「グローブ人」 とか 「地球人」 を名乗るのは、science fiction の世界のことです。 いつかは実現するでしょうか。
 だから、「人」(ジン)と名乗れるのは、その前に、具体的な国名をつける場合です。 「日本人」 「ドイツ人」 「中国人」 など。
 そういう 「~人」 の殆どは、その国で生まれ、そこで成長し、その国のことばで生活しています。
 ちょっと大事な話を挟みます。 私の最初の著書 『英語教育の変革』(1971年刊)の中に引用したものです。
 これは、『中央公論』(1970年12月号)で 「自然・文明・学問」 と題する藤沢令夫氏との対談の中で、当時岐阜大学学長だった今西錦司先生(私は当時岐阜大学に奉職していたので、先生と呼びます)が、話してみえることです。 前半は私の要約です。
 
 人間は生物、それも特殊な生物である。 生物は環境を利用しなければ生きては行けない。 その場合に人間以外の生物は、親ゆずりの身体が唯一の元手である。 新しい環境を利用しようとすれば、親ゆずりの身体を作りかえるより手がない。ところが人間は、自分の身体を作りかえるよりも、身体の外にものを作りだすということを学んだ。 道具の使用である。(McLuhan の media 論につながる考えです。)
 その道具を遺産として次に残す。 その蓄積が今日まで続いている。 道具は物質文化だが遺産には精神文化もある。

 ここから原文通りです。
 そうして人間が自分の周辺に環境を利用するために作り出したものが、こんどはその人間の環境になってくる。 そのためになまの自然と自分との間に中間帯として、第二次的な人工環境ができてきた。文化も文明もこうしてできた人工環境である。 そしてそれを利用するためには、それに適応することが必要であって、そのいちばんいい例は、言葉というもの、まず言葉を覚えなければわれわれの環境利用は成り立たない。 その人間の言葉というものも、人間が文化として作り出したものであって、サルにはこのような言葉がない。

 というわけで、人々は生まれた国で言葉を使って、人口環境を利用し、環境に適応して、生きているわけです。 言葉を知らないと、生きていけないので、どの国も、学校を作って、子供のうちから言葉を教えています。
 それはそれで、いいのですが、問題は、誰かが言ったように、人間が 「バベルの塔」を立てたので、神様(日本の神様ではない)が怒って、国が違ったり住むところが違っていると、別々の言葉を話すようにしてしまった、お互いに話が通じないようにしてしまったのです。
 そうなると、一歩自分の国を出て、別の国へ行くと、さっぱり言葉は通じない状況です。 言葉が分からないと、サルと同じです。 サルは木から落ちてもサルですが、言葉を落とした人間は、人間でなくなってしまいます。 サルが、自然環境に適応するには、言葉を必要としないので、たとえサルの世界に国境があったとしても、サルは国境を越えても生きていけますが、人間は、生きていけなくなります。サル以下になるわけです。
 しかし、人間は、そこはさるもの。 先ずは、強い国が弱い国を支配すると、その支配先で、生活できないと、困るので征服した国が、征服された国の人間に、自分の言葉を強制的に教えました。 英国とかスペインとかが、アフリカや南米の国を支配して、英語やスペイン語を教え込み、ついでにキリスト教も、言葉を通じて教えました。 キリスト教は人工的環境です。それに適応しないと、異教徒として弾圧されるので、支配されて国の民は仕方なく、キリスト教に改宗しました。
 このあたりの事情は、歴史で習ったことでしょうから、これ以上、立ち入りません。
 英国の後、特に第二次世界大戦後のパックスアメリカーナによって、英国の英語を受け継いだ、アメリカ合衆国の英語を使える人が、世界中に増えました。
 そうなると、国を出ても、英語の使える国では、英語が使えれば、その国の人工環境を利用することが出来ます。 中国語が出来れば、中国へ行っても、中国の人工環境を利用して、中国人と同じように生きていけます。
 しばらく前までの日本は、他の国へ行って、その国の人工環境で暮らせる人間をそれほど、必要としていませんでした。
 ところが、多国籍企業が、欧米で出現し、経済活動、生産活動が、「グローバル化」 すると、日本の企業は、国内だけにとどまっていては、他国の企業に負けてしまいます。欧米だけでなく、お隣の韓国・中国の企業にも負けてしまいます。中国・韓国などは、計画的に、他の国の人工環境を利用できる人を、養成してきました。
 その間、日本の経済・生産活動は、日本独自仕様のものにこだわり、気がついたら、「ガラパゴス化」 してしまっていました。
 そこで、慌てて、韓国に見習って、他の国でも、その国の人工的環境で活躍できる人材がいないか、と探し始めたわけです。
 国境線を越えても、というより、国境線を意識せず、自分の土地の国というより、国すら意識せず、行く先々の人工的環境を利用できれば、それは、毛利さんが宇宙からみた、国境線のない globe です。 そういう globe で生きていけるので、そういうひとを 「グローバル人材」 と呼んだのです。 「人材」 と呼ぶのは、並みの人間でないからです。 本来は「人財」 と呼ぶべきかも知れませんね。
 そういう 「人材」 は、日本人ですから、先にも指摘したように、「~人」 と呼ぶことはないわけです。
 そこでですね。 ちょっと先走ります。 昨日紹介した 「グローバル人材」 を論じたブログで、欧米では、そういう言い方はない、と指摘してあったことです。
 ちょっと考えれば、それは当たり前のことで、欧米諸国は、アフリカや南米やアジアの国々を植民地にして、自分たちの言葉を押し付けていましたから、欧米人の多くは、自分の国を出て、国境を越えた他の国へ行っても、そのまま自分の言葉で、やっていける国が沢山あります。 だから、彼らは、ずっと前から global な人です。 わざわざ「人材」と呼ぶほどのこともないわけですよ。
 というのが、私の 「グローバル人材」 の解釈です。 もっと言うことありますが、長くなったので、次回以降にします。

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