40年前の「国民皆教師」論。再録その2

 続きです。
 歌舞伎の「熊谷陣屋」に「十六年も一昔」で始まるの名セリフがあります。四十年は、その2.5倍ですね。今読み返してみると、何を今更、こんなことを、と思うことが多々ありますが、そう思うことは、40年間に進化してきたことの証でもあるか、と、思うことにします。
 一部強調するために、赤文字にしました。

 これらのことも考え合わせると、この際人間の能力に頼ることをやめて別の方策を立てたらどうかというのも一理あるのである。
 では、どんな方策かと言えば、それは人間の延長としてのメディアに頼る道である。この道だけは、 未だかって教育の分野で試みられたことはなかった。それは、また、教育機能への増大する要求に応ずる残された唯一の道でもあった。
 人間の能力に頼らず、メディアに頼る方策は、 人間のパフォーマンスが、他の人間に大きな影響与える分野では、当然のこととして促進されてきていることである 。 航空機が大型化し、より複雑な操縦・より大量の乗客になるにつれ、より安全・確実な運航のために、人間操縦士の能力に頼るのでなく、計器飛行やレーダーなどの 地上の管制設備などの各種のメディアに頼るようになった。在来線より比較にならない高速で大量の乗客を運ぶ新幹線の運行も同様である。勝たねばならぬ戦争も、もはや その軍拡は、兵士の数ではなく各種のハード・ソフトメディアの拡大である。かっての軍縮会議は兵力の縮小を求めたが、現在の軍縮会議は、軍事メディアの縮小を求め合う。
 人間でなく、メディアでというとすぐ、再三指摘したように教育は飛行機や新幹線やミサイルと違うのだ。機械で人間が教育できるかという例の決まり文句が出てくる。それに対する反論はすでに述べたが、この時点の論点までとっておいた、もう一つの重要な反証がある 。
 
 メディアは人間の延長であるという言い方は、言葉の調子の問題であって、その深層構造は、各種のメディアは人間の各種の能力の延長ということであった。メディアに頼るとは、人間の能力に頼らず人間の能力の延長としてのメディアに頼ることであって、人間に頼らないということではない。今までの論を振り返ってみれば、一度も人間に頼らないとは言っていないことに気づかれるであろう。
 メディアは、勝手に独立して機能するわけではない。メディアは、自己の延長として、人間が使うものである。 凡庸なる人間も、メディアの使用によって、各種の生来的機能を強化し、その道の有能者に匹敵し、これをしのぐこともできる。しかも、メディアのひとつの本質はユーザー・テクノロジーの簡便さでもあった。 長距離をオリンピックマラソン勝者ショーターや日本のマラソン王宋兄弟ほど速く走れない人でも、自転車や自動車を使うことで、もっと長距離をもっと早く行くことができる。
 しかも、自転車や自動車に乗るのには、マラソン選手ほどの訓練をする必要もない。計算機を使えば、ソロバンの達人よりも、複雑な計算が簡単に早くできる。剣道の修行を何年もした達人でも、初めて鉄砲、あるいは、殺人レーザー光線を持った人間にはかなわない。視力の衰えた人は、レンズによってその機能を補うことができる。
 これと同じことで、教師としての能力の劣る人でも、ユーザー・テクノロジーの簡単な各種の優れた教育機能の延長としての教育メディアを使えば、有能な教師に匹敵するところか、それを凌ぐ教育機能を果たすことが可能になる。何もメディアが勝手に教育するわけではないのである。能力の劣る人間教師の能力に頼るよりも、メディアに頼ることによって、人間教師の能力の不足をカバーしようというのである。
 従来の教員養成制度や研修制度では、教科書のような性能の低い、ユーザー・テクノロジーの難しいものを唯一のメディアとして、その不備を人間教師の能力でもってカバーしようとしたところに間違いがあったのである。
 
 人間の能力には限界があり、能力のある人間は限られている。その点、メディアは、人間能力を遥かに超えたものが開発可能であり、しかも、そういうものの均一品質・同一機能のものの大量生産が可能である。
 メディアのこの特質がフルに生かされると、専門家の存在が不要になる事態が生じて来る。すなわち、ある分野の機能についての高性能のメディアが大量に開発され、人々がこれを所有するように なると、従来はメディアなしで、あるいは不完全なメディア故に、その機能の養成訓練・研修が必要で、そういう訓練・研修を長期にわたって受けたその分野の専門家のみが果たせた機能が、訓練も研修もなしで、必要な場合でも簡単な短期の訓練で、素人にも果たせるようになる。

 自動車の運転は、昔は専門家の機能であった。運転のできる人は、運転と呼ばれた。この場合のというのは、師や士とややニュアンスを異にし、特に身体機能的な特別の専門技能をあらわす語である。 舵手・旗手・歌手 などの例からそのニュアンスがわかるであろう。野球の守備位置を表す一塁手・二塁手・遊撃手・中堅手・捕手・投手は、誰でもがどこでもやれるわけでもなく、一種の専門技能だから、である。一方、打は全員がならなければならない。自分は打つだけの専門の打手だとは(注:このころは指名打者制度はなかった)、言ってはおれないのである。昔は専門の機能だった運転は、自動車メディアの発達によって、だれでも短期の訓練でできるようになった。だから自家用車事故の 新聞報道では、運転は誰それと伝える。ところが、トラックの事故だと、何々運転と伝える。後者はまだ専門職だからである。(俳優のことを役者というのは、特定の役の専門家になってはダメで、どの役でもこなさなければならぬという意味での専門家否定意識のあらわれであると考えられる。)
 運転のみでなく、 各種分野での専門家・専門の職人の仕事だったことが、メディアの発達で素人でもできるになっている。カミソリで髭を剃るという ということは 、昔は床屋という専門家の仕事だったが、安全カミソリというメディアはそれを誰でも安全にできるようにし、さらに電気シェーバーという新しいメディアは通勤途中の 車の中でも簡単にできるようにしてしまった。
 写真を撮るということも、自動シャッター、さらには自動焦点つきのカメラや高感度フィルムによって誰でもできることになってしまった。その他産業の分野で新しいメディアの導入で熟練工が不要になり、未熟工で充分になり、さらには人手が 不要になった例は多数ある。  

 今日は、これくらいで、切り上げます。


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