教える「先生」と「導く先生」。どちらが要る?

今日は、難しい話をやさしく解説しなければならないので、朝から頭が痛い。
  なるべくわかりやすくするために、少し整理します。
  ことの起こりは、
 小学校で 「英語」 が正式な 「教科」 になる、
  から、始まりました。
  そうなると、自分の小学校、中学校、高校時代を通じて、ずーと 「先生」 に教えてもらった人たちは、
  自民党の教育再生実行会議のメンバーも、社説を書く論説委員も、世間の人も、
  正式な 「教科」 なら、それを担当する専任教員が要る、
  と、思いきわめてしまいます。
  それに対して、 
  小学校英語専任教員配置、絵に描いた餅。

  と、私がブログしたら、思いもかけずたくさんのアクセスがありました。
  と言っても、今日現在、135 と微々たるものですが。
  少なくとも、このブログを読んでいるひとは、この問題に興味・関心があるようです。
  
  では、専任教員なしで、どうするのだ、
  となります。
  そこで、
  先生なしでも、ちゃんと生徒が勝手に学ぶ
  という、有名な例を紹介しました。
  
  ところが、
  そんなことありえない。先生はなくてはならない
  という話もあるので、それも紹介しました。
 
  そうなると、
  いったい先生は要るのか、要らないのか、
  となります。

  その答えを、皆さんは、今日期待しているのです。
  そして期待している答えは、
  「要る」 or 「要らない」 のどちらかでしょう。

  話をそらすわけではありませんが、この答を求める前に、お待たせしてすみませんが、次のことを考えてください。
  人は、とかく 「二価的」 two-valued な考えに陥る易く、また、だまされるもの、
  ということです。
  これは、S.I. Hayakawa が、『思考と行動における言語』 Language in Thought and Action で、述べていることです。
  この本、第二版が出ています。Amazon.co.jp に在庫あります。
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   「二価的」考えをうまく利用して、人を欺いた例としては、ヒットラーが、反ユダヤ主義に利用した 「アーリア人 vs. 非アーリア人」 があります。

  私たちも、日常的に 「二価的」考えに染まっています。
  「右と左」、そこから、「右翼と左翼」、「正と邪」、「上下」、「男と女」
  挙げ出したらキリがありません。
  実際には、右と左には、真ん中があります。右翼と左翼の間には中道があります。
  人間の場合、更年期を過ぎると、女は、女性ホルモンが減って、男性ホルモンが増え、
  男は、男性ホルモンが減って、女性ホルモンが増えるそうです。
  その結果、女は 「男らしく」 なり、男は 「女らしく」 なる、
  ということです。そして、女の尻に敷かれる男が増えてきます。とういか男を尻にしく女が増えます。
  だから、見かけは男か女かどちらかでも、中身は、どちらでもない、ということなのです。

  そこで、
  「先生が要る」「要らない」 も、「二価的」考えに陥ってはいけない
  ということなのです。

  この場合は、もっと説明が要ります。
  「先生が要る、要らない」 を、ことば尻だけで、とらえると、「先生」 だけが浮いてしまいます。
  
  「要る」「要らない」 は、誰にとってか、
  ということです。
  「先生」 の仕事は、「生徒」 に教えることです。
  
  今のうちに断っておきますが、ここでは、「教師」「教員」「学習者」 という固いことばは避けて、日常語を使います。そして 「先生」 も 「生徒」 も学校の場合に限ります。
 
  個人的に、先生に頼らず、自分で 「勉強」 した人はいますが、普通には、学校で、教室で、先生について 「勉強」 します。
  だから、生徒にとって、先生が要らない、ということは、常識的には考えられません。

  ところが、日本の学校は、ともかく、欧米、特に英国と米国で、「先生が要らない生徒」 というか、
  「先生なしでも学ぶ」 生徒が出てきたのです。
 
  そして、ここが問題なのですが、そう仕向けたのは、先生自身たちだったのです。
  つまり、やっぱり、先生は要ったのです。
  ですが、その場合、
  先生の役目は 「教える」 ことではなくなった
  のです。
  教えなくても、先生といえるか、
  ということです。
  アメリカの場合は、そうなった場合、
  自分は、teacher ではない、つまり、「教える人」 ではない。
  educator である、つまり、educate の原義に基づいて 「引き出す人」 である

  と言い出す人が出てきました。
  中には、teacher でなく、facilitator、あるいは、supporter、更には enforcer などと言う人もいます。
  このことは、このブログでよく引用する Don Tapscott の Growing up Digital に出ています。
  後から紹介しますが、最近は、
  Guide on the side
  が定番になりつつあります。

  となると、
  「教える人」 teacher としての 「‎先生」 は、要らなくても、
  「導く人」 guide としての 「先生」 は、要る、
  ということになります。

  ややこしい話で、すみませんね。
  ということで、「先生は要るか、要らないか」 は、二価的には、答えられないのです。
  無理をして、一応答えるとすれば、
  「教える人」 としての 「先生」 は、今すぐとは言わなくても、だんだん 「要らなくなる」
  が、
  「導く人」 としての 「先生」 は、「要る」

  となります。
  
その場合、「導く人」 としての 「先生」 は、
  今までの 「教える」 ことに慣れ親しんでいた 「先生」 で務まるのか
  まったく新しいタイプの 「先生」 が要る、
  のか、
  また、先走って言えば、
  「導く人」 としての 「先生」 は、素人でも務まるか。たとえば私の strategy のシニアでつとまるか、
  ということも、考えなければならないのです。

  で、一番の問題は、
  こんなことを考えられる、英語教育の専門家は、いるのか?
  です。
  そういうことに考えの及ばない英語教育専門家は、小学校英語教育に口を出してもらっては困るのです。

  今日は、というか、今日も、やや煮え切らない話でした。
  明日は、もうちょっと煮詰めましょう。

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