マスコミが、「情報とコミュニケーションの自由」 を声高に主張しない理由。 その一。

 今までのエントリーで、こんなことを指摘してきました。
 日本では、freedom of information が、Wiki では 「情報公開」 にすり替わっている。
マスコミは、 「情報公開」 「出版の自由」 を声高に主張している。
 Freedom of information は、そのまま訳せば 「情報の自由」 なのに、なぜか、この言い方は、あまり見聞きしない。
 Freedom of communication は、ヨーロッパでは、freedom of communication on the internet として、EU 各国では、human rights として declare (宣言)されているのに、日本のマスコミは無関心である。
 なぜ、そうか。 今日は、やっと、その話に突っ込んで行きます。

 まずは復習します。 同じことを何度も書いているので、このブログを毎日読んでいる少数の人には退屈でしょうが、毎日読まない人が多いので、こちらも退屈しながら書いています。 ご了解を。 なるべく違った書き方をします。

 一番の原因は、information を 「情報」 という、訳のわからない漢語に訳したことです。 そして、それを 「名詞」 として使っていることです。
 Information のもとは、inform という動詞です。 その語源は、 in+form で、form (形) に in (入れる) ということです。
 Information には、そういう行為をするという動詞的な意味と、その行為の結果の 「inform されたもの」 という名詞的な意味の二つがあります。
 「情報」 と訳すと、後者の意味だけになってしまいます。 「情報公開」 というと、 「inform されたもの」 を公開する、という意味になります。
 
 人は、自分の心にあることを、他の人に、伝えて分ち合おう (communicate) とすると、それを、心の中にしまっておかないで、外へ出す (express ) ことが必要です。 外へ出す形 (form) としては、最初は、ことば (speech) が主でした。
 Freedom of speech の、speech という form は、誰でも使えるものでしから、この freedom は、基本的人権 (human right) として、people が enjoy できるものでした。
 Speech に加えて、絵画、写真、映画などの各種の media が form として使われるようになりました。 
 しかし、それらの media は、使うのに特別は技術や道具・機材を必要としました。 普通の people の skill や資力ではムリなものでした。
 Speech 以外の express の手段として、こういう form が使われるようになると、 freedom of speech というより、freedom of expression (表現の自由) ということばが使われるようになりました。
 しかし、この freedom は、これらの form を使いこなせる人だけが enjoy できるもので、普通の people とは、縁のないものでした。
 
 ここで、ちょっとお断りします。 いちいち 「普通の people」 と書くのは、お互いにうっとおしいので、これからは、単に people と書きます。 なぜ、「人々」 と言わないで、英語を使うか、というのは、この people は、Lincoln のいう、Government of the people, by the people and for the people の people だからです。 これを流布している日本語訳の 「人民」 にすると、「中国人民共和国」 の 「人民」 のようになって、people とは、感じが違ってくるからです。 「中国人民共和国」 の英訳は、People's Republic of China になっていますが、名は体を表していません。
 
 ところが、インターネット時代、特に、Web が普及すると、blog, twitter, infographic など多種多様な form が、特別な skill がなくても、お金もかからずに、people に利用できるようになりました。 それまで、高価で、使うのに skill が要った form も、バカチョンカメラに象徴されるように、affordable な価格で買えるようになり、使いこなせるものになりました。
こうなると、information (「inform すること」 と 「inform されたものー情報」)は、一部の専門家やマスコミの独占するものでなく、people が日常的に行うことになりました。
 この事態を反映して、freedom of information という言い方が、世界的に使われるようになりました。
そして、その意味は、
「inform されたもの」、すなわち 「情報」 を自由に手に入れること、
というより、
心の中を、自由に、好きな form に入れる、つまり、informing する 「自由」 freedom
の方が強いのです。
 くどいようですが、
freedom of speech, freedom of expression の進化したものです。
 そして、更には、そうして、inform したもの、この場合は、日本語でいう 「情報」 になりますが、
それを、YouTube に象徴されるように、ネット上に 「公開」 し、他のpeople と communicate できる時代になりました。
 先に紹介したように、EU では、この事態にいち早く反応 (respond) したのが、EU でした。 そして、先に紹介したように、 freedom of communication on the internet を declare しました。

 以上復習でした。

 これからが、今日の主題です。
それなのに、なぜ、日本のマスコミは、この事態に反応しないか、です。
これには、二つの理由があります。 今日は、まず、一つ目です。

 インターネットや Web が普及するまでは、inform することや、その結果の information を 「ばらまく」 ことは、information (行為) の手段と資力を持っているマスコミと、その他の出版業界、それも、その業界を仕切っている一部の人間の特権でした。
 「ばらまく」 と言っても、タダで 「ばらまく」 のでなく、ばらまかれたものを、手に入れようとすると、お金が要りました。 その 「ばらまき」 方も、一度の大勢の people と communicate しようと、一斉にばらまくので、mass communication と呼ばれました。 テレビ、ラジオのばらまき方は、broadcast と呼ばれました。 その意味は、「広くばらまく」 です。 「放送」 などと訳しているので、その意味を理解している人は少ないです。
 本来の communication は、双方向的ですが、mass communication や、broadcast の場合は、一方向的です。 ばらまく方が、information (モノ) の producer で、ばらまかれたものを金を払って受け取る方は、consumer です。 忘れてならないのは、「消費者」 と訳されいるように、consumer は、金を払う人です。 マスコミのばらまく information (モノ) は、金を払わないと、手にはいらないのです。
 金の払い方は、直接的でなく間接的な場合もあります。 民放のテレビ放送は、タダで見れます。 放送局はタダで、放送しているのでなく、CM を提供する広告主に売っています。 視聴者は、その広告主の売る製品の consumer になることを期待されています。 見るのはタダと思っていますが、ドラマの途中で、いきなり CM が入ったり、野球中継のイニングの交代期には、ながながと CM をみさせられるという 「対価」 をはらわせれています。

 ちょっと横道にそれました。
自分たちだけが、information (行為) の 「自由」 を満喫し、produce した information (モノ)を、mass (大量) にばらまいて、しかも、そのばらまくルート (道) まで支配して、儲けていたのに、
 People が、誰でも inform できて、その information (モノ)をネット上で、タダで他の people と communicate するようになると、
金を払って、 新聞・雑誌、更には、本などを、買ったり読んだりする人が、減ってきます。 現にそうなっています。
 しかも、people の話の方が面白かったり、ニュースの場合は、即時性や現場性が強いとなったら、どうなりますか。 このこと、明後日あたりの話になります。

 だから、freedom of information (行為) と freedom of communication は、今まで information (行為 とモノ) を独占し、mass communication 網を支配していた、マスコミには、困ったことなのです。
 だから、彼らは、このことには触れたがらないのです。 What do you think?

 もう一つ最後に。
マスコミが声高にいう 「出版の自由」 です。
 「出版」 というと、出版社とか、新聞社とか、そういうところが、特に紙を使って印刷し、「本」 や 「新聞」 の形で売る、その流通経路も支配している、という行為と思われています。
私に言わせると、「出版」 ということばも 「情報」 と並んで、people を欺いてきた訳語です。
「出版」 の元になっている英語は、publish です。 「出版社」 は、英語でいうと publishing company です。
Publish とは、Webster の定義によれば、
to make publicly known
そして、public とは、people のことです。
だから、publish とは、
人々 (people) に知らせる、
ということです。 「出版」 とは、だいぶ意味合いが違いますね。

 このブログ、書き上げると、みんさんに、こんなこと書きましたよと 「知らせる」 運びになります。
そのために、どうするか、というと、保存すると、下のような画面が出てきます。
「公開」 というボタンがあります。
画像

 何故か、日本語のブログサイトでは、「公開」 になっていますが、英語版では、ここは、 ”Publish” です。
つまり、このボタンを click/tap すると、私が書いたブログ記事が、「出版」 されるのです。
 私でなくても、ブログを書いた人なら、その記事を、click/tap だけで 「出版」 できる時代になったのです。
「出版の自由」 は、出版社や新聞社、放送局の独占物ではなくなったのです。
金はなくとも、特別な設備や、流通ルートを持ってなくても、「出版」 出来る時代です。
そうなると、マスコミや出版社は面白くないでしょう。 だから、彼らは、「出版の自由」 の根底にある 「情報の自由」 や 「コミュニケーションの自由」 をことさら宣伝しないのです。
というのが、私の考える一つの理由です。 もう一つの理由は、明日紹介します。

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