40年前の「国民皆教師」論。再録その4

 今日の「日経」の第一面トップの大見出し
「全教員にデジタル指導力」
脇見出し「専門家派遣、最大9000人」
 皆さんのとっている新聞にも、この記事載ってましたか。
 この記事を読んだ、読まなかったは、別として、この見出しから判断して、どう思いますか。
 と、いうより、私の「国民皆教師」論と比べて、どう思いますか。
 
 とりあえず、続きを読んでください。
 今までの論より、更に突拍子もない論が展開されています。こんなことできるはずない、と思うでしょうね。でも、こうでもしないと、
今日の見出しに、もうひとこと「海外に大きく遅れ」とありましたが、もっと遅れることになるのではないか、と老婆心ならぬ、老爺心で心配しているのですがねえ。

教育専門家の養成 国民皆教師とは、いわば 戦時中の国民皆兵にあたるものである。 教育は、もともと国民の機能であった。 それが、学校が一手に引き受け、独占化してしまったのである。学校がその機能を果たすのに失敗した今、それを今一度国民に戻すのである。国民全体が責任を持つべき仕事にするのである 。
 国民皆兵は、平時は普通の市民を、有事の時に動員して、武器を与え、即席兵士を作る方策であった。武器さえ優れていれば、引き金を引き、ボタンを押すだけで、敵を破壊できる。素人で間に合うわけである。ところが、どの目標を優先するか、どこを攻撃するか、どこでどのボタンを押すか、いつ引き金を引くかということは、誰かが指揮しなければならない、さらには、必要な武器の開発・その配置の研究に常時従事している人も必要である。
 国民皆兵時代には、士官学校というものがあって、そこで軍事の専門家として、それを仕事とする職業軍人を養成していた。そういう専門家が絶えず国の防衛のことを考え、いざ事あるときに は、動員した素人兵を指揮してことにあたるのである。
 教育も同じことで、単に素人に教育メディアを与えるだけで、ことは成就しない。 そういうメディアの開発に従事し、実際の教授・学習行為の指揮をとる、常時教育のことばかり考えてる教育専門家・職業教育者ともいうべき人が必要である 。
 こういう専門家は、素人を即席に養成 して使うわけにはいかない。士官学校ともいうべきところで、長期にわたって養成しなければならない。
 更に、この専門家には①もっぱら新しいメディアの開発に従事する人と ② 現場に出向いて実際の 教授・学習活動の指導とる人とが考えられる 。
 メディア及びその使用は、システム化して初めて効力を発揮するものであった。したがって、これが①②の教授学習システムを研究に従事する人を 、①システム開発者②システム設計者と呼ぶことにしたい。

 ここに、従来の教員養成に代わる、教員ではない教育専門家である教育システム開発者・設計者の養成制度を設ける必要がでてくる。従来、付属的に教員養成をしてきた各学部はその仕事がなくなっても、本来の目的があるから良いが、教員養成をプロパーの目的としてきた各県にひとつずつある教育学部は存在理由がなくなる。これらの学部は旧師範学校以来、教育の研究に従事してきて、教育の分野の実績とスタッフを持っている。 これをこれらの専門家の養成機関に衣替えする。この際、従来の使命は終わったのだから、これらの学部は一旦廃部とし、特にスタッフについては、新しい任務に適するものは、そのまま残すが、不適なものは廃部とともに、新しい任務に必要なものと入れ替える。
 名称も、教育システム学部とでも変えて、イメージ一新を図るとよい。 単科大学より、総合大学の中の一学部の方が望ましい。他学部の専門研究者の協力が得られると言うことだけではない。将来の教育専門家になる学生が他学部学生と混じり合い、教育を広い視野で見ることができる。何よりも、他学部の学生は将来素人教員として動員する対象である。彼らがどういう勉強しているかよく知っておくことは参考に乗ろう。 大学院は、博士課程のまでのものを設置する。
 開発者と設計者の役割の違いは、開発者の開発したシステムを、設計者が実際の現場にあわせて設計するわけで、参謀本部と前線の下士官のような関係である。設計者は学部段階で、開発者は大学院博士課程レベルで養成する。設計者の一部は、修士課程レベルで養成し、上級設計者として、設計者の設計指導に当たらせる。学位は、教育システム設計士・同修士、教育システム開発修士・同博士の四つが考えられる。
 次には、このような開発者・設計者の養成カリキュラムが問題になるが、教員養成制度変革を提案している本論では、具体的なカリキュラムで技術的問題は、別の機会に譲り、ここでは養成カリキュラム作成上の留意点のみを指摘しておきたい。
 
 開発とか設計という仕事は、ものごとについて単に知ることではなく、そういうことができなければならない。それは、ものごとの理を極める科学ではなく、プロフェッションと言われる専門的な実務の仕事である。だからと言って、科学と無縁ではなく、科学の生み出した知識を、実際のことに応用する仕事である。
 したがって、開発者・設計者の養成は、学者の養成ではなく、学の薀蓄を極めることが目的でもない。それは、ある学問分野のスペシアリストを養成するのでなく、開発・設計という仕事に必要な、あらゆる学問の、そのまた必要部分を、何でも使って、実際に開発・設計ができる一種のジェネラリストを養成するのである。その一方、必要な知識が既成学問で提供されない場合は、自らその知識の生産ができる科学の仕事も時には必要とあらばできねばならない。

 このような観点からすれば、開発者・設計者の養成は、従来の大学・大学院教育のように、いくつかの専門学問分野のメニューを並べて、その一つ一つをそれぞれの専門家が、これこそ一番おいしいと言わんばかりに押し付けるやり方では不適切である。つまり机に座っているだけでは駄目である。
 それはまず何よりも、具体的な教育システム開発・設計の仕事をしながら、その手法を学ぶことから始まり、終始一貫それを中心とする。それは how を学ぶことである。How には why が必要である。Why は分析を主とし、科学が提供するものである。 How は、必要な why の知識を、あらゆる学問分野から取って来て総合する仕事であり、その訓練をするものである。 これは他から与えられたものを学ぶというのではなく、自ら必要だから学ぶものである。必要は発明の母と言うが、必要はまた学びの母でもある。そうとすれば必要だと思われる専門分野の授業科目をすべて設ける必要などない。必要になる知識についての資料・書物さえ揃えておけばよい。その都度専門家を招いて話を聞くなり、相談にのってもらえばよい。

 結構長く続いています。飽きたかもしれませんね。反応が鈍いですね。まあ、考えたこともないから、仕方ないかな。

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