40年前の「国民皆教師」論。再録その3

 40年前のことばかり、読んでいてもつまらないでしょうから、よかったら、
20年前の2011年4月10日のエントリーも読んでみてください。「国民皆教師」が、荒唐無稽の考えでないことが、理解出来るはずです。

ADL と Scorm. 何のことか分からないでしょう。

 とりあえず、続きです。いよいよ「ホンネ」が出てきます。つまり、学校に教師という人種だけを住まわせて置くのでなく、あらゆる職業の人がいるのが、本来の教育ではないか、という話になってきます。


 教師の師は、先に指摘したごとく、専門職を表しているが、教育のハードソフトメディアの変化があれば、それら高性能のメディアを用いることによって、誰もが従来の専門家教師と同じか、それ以上の教育機能を果たすことが可能になる。すなわち、専門家としての教から、素人でもできる教への 転換である。 専門家教師は、長期の養成や研修が必要だが、素人教者は養成する必要はない。養成とは、養って成らせるもので、じっくり時間をかけるという意味合いがある。 成らぬ場合もあることも含んでいる。 教者は養成せずとも、促成栽培することが可能である。 メディアの性能次第では何の訓練も必要としない場合もある 。
 ここに、先述の教員養成変革の②立場、すなわち、英語を教える教員はこれを養成しないということが可能になる根拠があったのである。
 
 教員は養成しない、 促成栽培可能だなどと言うと、またすぐにそんなお粗末な、ネコも杓子もなれるような教員に教育をまかせるなどとは、もってのほかだと、やかましくなるのは必須である 。
 教師というものは、いつも生徒に対して威張ってる人が多いので、とかく人を見下す傾向がある。自分たちは専門職と思っている。それが促成でできるとなると、自分たちの意義がなくなるので、 促成はお粗末と決めつける。
 
 誤解してはいけない。 ここにしばしば、能力がないと言っているのは、単に教師としての能力、教える能力のことで、人間として全ての能力のことではない。他のことは有能であり、人間として有能であっても、教える能力があると限らない。 それは一種の特殊能力である。世の中には、教える能力はなくても、他の能力に優れた人、ものごとをよく知っている人がいっぱいいる。あるいは、教える能力もあるが、他のことのほうがもっと優れているので、別の方面で活躍している人も多い。能力については、 人間不平等なもので、とかく有能な人は何をさせてもうまいものだ。 そういう人が全部教育の分野で活躍を望むとは限らない。能力だけでなくて、人格者・善人も、教育界の外にいっぱいいる。
 まり、何も学校の先生だけが、有能でも、物知りでも、人格者でもないわけである。
 
 そういう人たちは、教員としての能力がないだけである。たとえあっても他の仕事を持っているので、その能力を訓練したり、研修したりする暇がないだけである。
 この人たちを、時間をかけて養成したり、教育の専門家として引き抜く代わりに、 今の仕事はそのまま続けていただいて、ユーザー・テクノロジの簡単な高性能の教育メディアを提供して、教者になってもらうのである。 自動炊飯器で誰もが上手に米が炊けるようになり、計算機の発達で国民全部がソロバンの名人級になったり、より安全・ドライバビリティの高い自動車の開発が国民皆(自動車) 免許時代をもたらしたように、教育メディアの普及によりみんなを先生にしてしまうのである。 自動車の運転が専門家の仕事でなく、 仕事持ってる人の誰でもできるようになったように、教えることなど自分の専門の仕事外の片手間の仕事にしてしまうのである。 国民皆教師である。こういう人たちを学校に来てもらうなり、自宅なりで教者として教育に従事してもらうのである。
 しかし、片手間やパートタイムでは困るという意見が当然だろう。
 
 メディアの特質の1つは、誰が使っても同じ効果を発揮するということであった。メディアは人を選ばないのである。 教育メディアに関して具体的には、例えば週3時間英語の時間があるとすると、毎時間教える人が変わっても、一年を通して数人以上の教える人が担当しても、メディアの同じである限り、英語教え・学ぶという機能は変わらない。それどころか、この方式は逆に生徒が様々な人格・職業の人に接しうる機会を与えてくれる。小学1年から高校3年まで12年間、朝から夕方まで学校ところに閉じ込められて、教師という人種だけ、しかも、あてがいぶちのものだけに接しているよりも、よほど教育効果があろう。しかも、生徒は教師になるために学習しているのではない。社会の各分野で生きるために学習しているのである。学校時代から、そういう各分野の人に接する機会を与え、一方各分野の人にも、自分たちの後継者たる後続世代を教育する機会を与えることは、単に生きるための教育のみでなく、よりよく生きるための古今普遍の教育原理にも沿った道なのである。
 所詮、限られた才能しか集められない教育の分野に、いたずらに数だけ増やして、人間としても無能、人格も劣る教員を集め、それを教員として養成・研修するという、無駄な努力をすることはない。それに代わって、教える能力をメディア化して、すべての人に与え、すべての人を教者にし、一方、学習者には自分たちの目指してる分野の人と接する機会を与えるという、 従来の教員養成制度とは全く正反対の変革がここに考えうるのである。
 だがこの変革案を可能にするには、まだ必要な、しなければならないことがある。 それを最後に提案したい。

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